ELSIとは
ELSIとは、倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues)の頭文字をとったもので、エルシーと読まれています。新規科学技術を研究開発し、社会実装する際に生じうる、技術的課題以外のあらゆる課題を含みます。
- 米国で1990年にスタートしたゲノム解析プロジェクトの中に「ELSI研究プログラム」が誕生しました。(当時、IはIssues ではなく、Implicationsすなわち影響/含意のIでした。)
- 外部向け研究予算の3%(のちに「少なくとも5%」)がELSIに関する研究に割り当てられることになり、その後、いくつかの大学にELSIを扱う研究拠点が設置されました。
- ELSIの考え方は、ナノテクノロジー、脳科学、コンピューターサイエンスなどにも拡大しつつあります。
- 欧州では、ELSA(Aはaspects、すなわち側面)と呼ばれ、のちに「RRI: Responsible Research and Innovation(責任ある研究&イノベーション)」と呼ばれる概念に発展しました。
- 日本では、主に生命科学分野の中でELSIは研究されてきましたが、委員会のような形が多く、ELSIを中心に据えた研究プログラムや研究拠点は存在しませんでした。
- 第5期科学技術基本計画では「倫理的・法制度的・社会的課題」として取り上げられました。
EとLとSの関係
倫理的・法的・社会的課題の中で、倫理(E)は、社会において人々が依拠するべき規範であり、長期的には変化しますが、短期的には安定的です。法(L)の基盤となることが期待されています。法(L)は倫理(E)からの不断の見直しを迫られますが、社会(S)の影響も受けざるをえません。他方、社会(S)、すなわち世論は移ろいやすく、不安定です。
新しい科学技術が社会に導入されると、現行の法規制(L)で解釈ができなかったり、そのままだと違法になってしまったりすることがあります。例えば、安価なドローンが普及し始めた際に、航空法が小型の無人機に十分に対応したものでないことが課題として浮上しました。また、新規科学技術は、新たな倫理規範(E)を必要とすることがあります。新しい生殖医療技術や移植技術は常に新しい倫理的な規範を必要とします。また、19世紀末、人々がカメラを持つことができるようになったことが、プライバシー権という新しい規範を生み出しました。さらに、新規科学技術には、社会的受容性(S)も必要不可欠です。たとえ法規制(L)を遵守していても、当該技術を社会(S)が受け入れない場合は、いわゆる炎上という事態が容易に生じます。
このように、新規科学技術のイノベーション、すなわち新しい科学技術を社会に普及させ、新たな産業の創造や生活様式の変化にまで導くためには、倫理(E)、法(L)、社会(S)のすべての課題に対処する必要があるのです。
ELSIの歴史
ELSIという言葉は、1988年に米国国立衛生研究所(NIH)のヒトゲノム研究所(HGI)の所長に就任したばかりのジェームズ・ワトソン氏(DNA の二重らせん構造の発見者の1人)が、スピーチの中で、米国政府が資金提供するヒトゲノム計画(HGP)では、倫理的・法的・社会的影響(ELSI: Ethical, Legal and Social Implications)の研究に特化した予算を確保することを提案したのが始まりです。ELSIは、研究プログラムとして1990年に始まり、ELSIの「I」は、Implications(影響)でした。ヒトゲノムが解析され、配列が決定した際に、個人と社会へどのような影響があり得るのかを予測し、国民的な議論を喚起して、ヒトゲノム情報が個人と社会に便益をもたらすように利用される仕組みを検討することがELSI研究の目的とされました。
最初はヒトゲノム計画(HGP)研究予算の3%がELSI向けに割り当てられましたが、1993年に議会は、外部向けの研究予算の少なくとも5%をELSI研究支援に当てることを義務付けました。2004年からは全米の大学に、学際的なELSI研究の拠点(Centers of Excellence)が設置されました。ELSIに関わる研究費は2010年頃には最大で2500万ドル(約27億円)/年まで増えました。米国のELSIプログラムの1つの成果とされているのが、最初の法案提出から成立まで13年を要して2008年にようやく成立した遺伝情報差別禁止法です。欧州では、第4次のEU枠組みプログラムにおいて、ELSIと同様の内容が、ELSA(AはAspect:側面)として実践されました。2014年に始まった第8次のEU枠組みプログラムでは、責任ある研究及びイノベーション(RRI)というより広い概念が導入されました。
ELSIは、ゲノム解析技術に関して生まれた用語であったことから当初はバイオ分野において主に用いられてきたが、近年は、ナノテクノロジー、情報技術、原子力技術、コンピューターサイエンス、人工知能(AI)技術などの文脈においても用いられる機会が増えつつあります。
ELSIは新規科学技術を社会や政策に橋渡しするために有用な概念です。人文社会科学系の研究者らに一定の研究費が継続的に投じられたことは、先駆的であり、データサイエンスとAIの適用に倫理原則や社会受容性が求められる現在に多くの示唆を与えるものでした。しかし、多くの研究予算がELSI研究として人文社会科学系の研究者に流れたことの弊害もいくつか指摘されました。そのうちの1つは、大型の科学技術プログラムに組み込まれた人文社会科学者が批判的な姿勢を失ってしまう恐れです。こうした傾向を揶揄するために、 “ELSIfication”(エルシフィケーション)という造語も作られたようです。確かに、特定の新規科学技術を正当化するための「しもべ」と化してしまっては学問とは呼べないという批判を浴びることもあるでしょう。大型の科学技術プログラムの中で雇用されたELSI研究者は、専門家としての誠実さを貫き、キャリアを捨てざるを得なくなるか、専門家としての誠実さを損なう妥協をしてしまうかという選択に直面する可能性があります。ELSI研究では、潜在的に利益相反の可能性をはらんでいることに自覚的であること、そして、利益相反にならないような仕組みを工夫することが必要です。
日本では文部科学省の委託事業として2003年度から開始された「個人の遺伝情報に応じた医療の実現プロジェクト(オーダーメイド医療実現化プロジェクト)」において、倫理的・法的・社会的問題(ELSI)の検討等を行う組織として、2003年7月に推進委員会の下に「ELSIワーキンググループ」が設置されました。国の大規模研究プロジェクトに、ELSIを検討する組織が設けられた初めての事例でした。その後、より独立性を高めた「ELSI委員会」に改組されました。しかし、委員はみな非常勤であり、活動内容にもおのずと限界がありました。近年は、国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)からELSIに関わるの研究公募があるなど、研究予算が徐々に増えてきています。
他方、第五期科学技術基本計画では、第6章「科学技術イノベーションと社会との関係深化」の中で、「倫理的・法制度的な課題」に関して社会として意思決定しなければならない場面がますます増え、「新たな科学技術の社会実装に際しては、国等が、多様なステークホルダー間の公式又は非公式のコミュニケーションの場を設けつつ、倫理的・法制度的・社会的課題について人文社会科学及び自然科学の様々な分野が参画する研究を進め、この成果を踏まえて社会的便益、社会的コスト、意図せざる利用などを予測し、その上で、利害調整を含めた制度的枠組みの構築について検討を行い、必要な措置を講ずる。」と書かれています。
2020年4月1日
大阪大学 社会技術共創研究センター長 岸本 充生